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柳ケ瀬界隈を徘徊する。

柳ケ瀬と言えば飲み屋街、そんなイメージ。
美川憲一の『柳ケ瀬ブルース』を思い浮かべるのは
老人ばかりかな。
前回は碌に下調べもせずにやってきたので、
見落としその他も多い。
改めてユーチューブ動画作成のためやってきた。
宿泊場所は前回来た時に見つけた、
アサヒビジネスホテルである。
場所は西柳ケ瀬のアーケードを抜けたところにある
成人映画館である朝日映画劇場の上にある
ビジネスホテルである。
ちなみに楽天トラベル等の宿泊サイトではニットしなかった。
アサヒビジネスホテルに直接電話をして予約する。
058-266-1919
部屋は普通のビジネスホテルです。
アメニティもついていて3,500円でした。
とりあえずチェックインしたので、街歩く出発です。
戦後闇市から始まって、
日本を代表するアパレルの産地の成長した岐阜。
日本三大アパレル、東京・大阪・岐阜
と言われるようにまでなった。
それは日本経済をけん引するほどの
アパレル産業がここ岐阜にあった。
しかし現在はかっての面影はない。
ここは問屋街であって、繊維を作っていたわけではない。
作っていたの岐阜羽島や愛知県の一宮でした。
愛知県の一宮は日本一のウールの産地です。
『尾州ウール』として有名です。
景気のいい頃は『ガチャマン景気』と言われていたくらいで、
ガチャンと一回織ったら、1万円儲かるとまで言われていた。
さて岐阜駅前の繊維問屋街を歩いてみよう。
寂れていてうす暗さもある。
戦後、北満州からの引揚者たちが
岐阜駅前の闇市で、古着や軍服を売り始めた。
戦後着るものすら満足になかった時代、
皆着るものを欲したのだ。
仕入れたら仕入れたで毛どんどん売れた時代であった。
駅前の新ハルピン繊維会館がある。。
満州からの引揚者が中心の闇市が
発祥だったことに由来する。
ハルピンというのは満州にあった都市の名前である。
最近はハルピンと言っても知らない若者も多い時代である。
戦後日本各地は焼け野原となり
祖国に帰ってそれを目にした者たちは
とにかく生きていく為に何もない中闇市をしてでも生きるしかなかった時代である。
次第に日本も普通を取り戻していく。
昭和25年に岐阜駅前のハルピン街は
駅前の再開発により解体される。
その後一時期西の地域に移転となる。
現在第ハルピン住宅とよばれる地域である。
その後駅前を区画整理して問屋街が形成されたのだろう。
昭和30年代ごろからであろうか
時代とともに古着ではなく
新しい服が求められるようになっていった。
そこで自分たちで衣服を作って売るようになっていった。
最盛期には1,800軒もの店が連ねられたそうである。
現在のこの問屋街を歩いていると
その面影を探すことすら難しい。
雨漏りを一生懸命何とかしている。
すでに何とかする余裕はなくなっていたことがわかる。
この景気のいい時代が夜の柳ケ瀬を支えていたのだろう。
それは別動画で。
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