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町田

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町田

新宿駅から小田急線の快速急行で片道30分、
横浜駅から横浜線で35分、
東京と神奈川の都県境に挟まれながら発展してきた衛星都市「町田」

中でも、中心繁華街から線路で分断された
町田駅南口は長らく発展から取り残され、
いかがわしい歓楽街として街の負の部分を担ってきた。
住所派は相模原市上鶴間。
「たんぼ」と呼ばれる違法風俗営業の地区である。
なぜ「田んぼ」と呼ばれたのだろうか。
最初は合法的な飲食店街だったが、今から30~40年ほど前から売春行為が行われるようになり、1990年代後半に撲滅運動が行われた。
相模原市上鶴間は、JR横浜線町田駅の南口側に位置する。近くには小田急線の町田駅もあり、東京と横浜の中心へ交通の便の良いこの場所に、有名な違法風俗店街があったというのは本当なのだろうか?
JR横浜線の町田駅の北口に出ると、駅前歩道が整備され、デパートなど巨大な商業施設が建ち並ぶにぎやかな駅前の風景が広がっている。
しかし南口の相模原市上鶴間の方に下りると、人通りの多さを感じさせるのは、家電量販店の周囲くらいで、その差に驚かされた。
駅から歩いて数分のところに、
「さがみはら安全安心ステーション」という
民間交番がある。
1990年代後半ごろに「たんぼ」の撲滅運動があり、
近くに監視のための民間交番が設けられた、
とあったが、これがその民間交番のようだ。
この民間交番の裏手あたりは、以前は違法風俗店などがある治安の悪い場所でした。
そのため違法風俗店などでトラブルなどが発生した際、慣れた対応ができる職員が必要のため、
私のような警察のOBが駐在しているのです」と答えてくれた
現在ラブホテル群のある場所に「たんぼ」があった
そこで以前「たんぼ」があったあたりを歩いてみると、ラブホテルが建ち並ぶ場所だった。
すでに違法風俗店の面影はない。
近くに住むYさんに伺うと「ここは戦前から田んぼが広がり、かんがい用水が流れる湿地帯で、人が住めるような所ではありませんでした。『たんぼ』の名もここから来ています」
「田んぼ」と呼ばれていたこの一帯の歴史は、その名の通りまだ田んぼしか無かった駅裏地帯に戦後破綻した澱粉工場の跡地に昭和34(1959)年に出来た「東新楽天地」という特殊飲食街に始まる。北口の繁華街とは隔てられた空間でまさに「駅裏」らしい独自の発展を遂げてきた。80年代までには境川沿いにホテル街も形成され、ほぼ現在の形に収まっている。
それに横浜線町田駅が今の場所にあるのは再開発事業があった昭和55(1980)年以降の事で、それ以前は東に300メートル程離れた町田ターミナルプラザ付近にあった「原町田駅」が前身となる。つまり「田んぼ」が出来た当初は駅裏でも何でもなく、本当に田んぼのど真ん中にあった盛り場でしか無かったのだ。
「初めは『東神楽天地(とうしんらくてんち)』という看板を掲げ、旅館や飲み屋が並んで営業していたのです。しかし旅館と言っても連れ込み宿のようなもので、今のラブホテルのようなものでした。そしてホッタテ小屋の売春宿に変わっていったのです」
「そこに戦後、在日韓国・朝鮮人のような外国人がやって来て、この場所に旅館などを建てたのです。田んぼなどはありましたが、誰の土地かはっきり分からないような場所だったため、『うちのものだ』などとお互いに勝手に言い張ったりして営業を始めたようです」
「以前は80軒ほどあり、5~6年前まで30~40軒はありました。しかし一斉取り締まりでなくなってしまいました。戦後間もなくは日本人女性が接客していましたが、最近は中国・台湾・タイ・南米などの外国人が多くなっていました。料金は30分で1万から1万5000円程度。女の人が一軒に一人ずつ立っていて、『遊んで行かない?』と声をかけてきます。そして店先で値段の交渉をして、奥に入るのです」
「以前の町田駅は北口だけで、30年ほど前に南口が出来るまではこちら側に入り口はなく、さみしいところでした。都心や横浜の中心地と違い、このあたりには風俗店などが少なかったこともあり、いっときは他県からも客が訪れるほど、繁盛していました」
「初めのころは町内会と協力し合っているなどとトラブルがありませんでした。日本人女性だったころは、雰囲気も良かったのですが、外国人に変わったころから衛生面で汚くなったり、仲の悪い女の子同士のケンカなどが起こったりしました。以前『たんぼ』をテーマにした2時間ドラマをやっていましたし、興味深い場所ではありましたね」と答えてくれた。
違法風俗店街となった「たんぼ」も、最初のころは町内からも問題視されない合法の飲食店街であったようだ。
前相模原市議会議員の本間俊三(ほんま・としぞう)さんに、「たんぼ」の始まりに関して伺うと「最初あのあたりでは、川の近くで代々地主が稲作を行っていました。そして戦中に埋め立てて近くで採れるサツマイモからでんぷんを取る『でんぷん工場』を作りました。しかし戦後倒産し、間もなくして在日韓国・朝鮮人が入ってきて、飲み屋などを始めたのです」
「田んぼは戦後、”青線(売春行為は認められない。”赤線”は売春を認められている)”の特殊飲食店として始まりました。その青線で売春行為が始まったのは、昭和60年から平成7年頃ではなかっただろうか。、シンガポール・台湾・タイ・北欧・ブラジルなどの外国人の女の子が入ってきて、店の奥が”ちょんの間”になってからです」
このころ新大久保も同じように外国人売春婦があふれていたと記憶している。
「『たんぼ』の周りは、事情を知る地元住民でも怖くて近寄りがたい場所でした。反対側の東京の方は開けていて差があります。南口の地元民は『町の恥』と感じていた人が多かったです」と答えてくれた。
取り締まりに関して伺うと「最初は警察も、外国人の不法滞在などとして売春婦の取り締まりを始めましたが、一時期取り締まっても、少しすると復活してしまうのです。また東京と神奈川県の境であることも問題を難しくさせていて、警視庁と神奈川県警が合同で行うという異例の取り締まりをする必要がありました」
撲滅運動で難しかったことに関して伺うと「『たんぼ』の地権者の間では又貸しなども行われ、権利関係が複雑になったため地権者の調査が難しかったのです。しかし登記上は在日韓国・朝鮮人のY一家などが持っていました」
90年代後半には横浜の黄金町、川崎の堀之内と並ぶ外国人女性だらけの無法地帯となり、1998年には83軒もの違法営業店が密集していたという。1999年に警察の捜査本部が置かれ集中取り締まりが行われた結果、店舗は2005年までに全て壊滅。しばらくはプレハブ小屋の特殊飲食店が軒を連ねていたが、現在は解体され全てコインパーキング等に変わっている。
「30~40年前に『再開発をしよう』という話が出ましたが、交渉相手が水商売の人や反社会的勢力だったので難しく、棚上げになってしまいました。また20年ほど前、ある地権者の兄弟の長男が、取り締まりで逮捕された後、出所してきて『まともな仕事がしたい』と私に相談してきました。そして『自分の土地を再開発しよう』と話がまとまったため、資金を工面するために銀行に行ったのですが、どういうわけか銀行側に融資を断られてしまい、話が進まなかったのです」
「さらに違法風俗店のころは普通の店の10倍の儲けのため、地権者が営業したくない、と言っても、裏にいる反社会的勢力がそれを許さないのです。そのためなかなか営業はなくなりませんでした」と答えてくれた。
同時期には町田の人口増加による住宅需要が駅裏のこの一帯にも及び、新築マンションがいかがわしい歓楽街を取り囲むように続々建設された。住民の増加によって違法風俗街の排除に向けた動きに一気に拍車が掛かった形なのだろう。
2007(平成19)年4月に起こった「JR町田駅南口発砲殺人立てこもり事件」に関して伺うと「同じ組の兄貴分が弟分に取り立てに関するプレッシャーをかけたことで起こった事件です。反社会的勢力の抗争に関しては、異なった組同士ではなく、利権をめぐって同じ組の中での抗争はありました」
「また今まで仕切っていた組が弱くなったころ、新しい組がこの場所を狙っている、ということもありました。いくつもの店が入っている一つの建物から、1ヶ月700万円の売り上げがあったというのですから、彼らにとっておいしい場所だったと言えます」と答えてくれた。
今でも「田んぼ」跡には警察官が常駐する「さがみはら安全安心ステーション」(相模原南警察署 町田駅南口臨時警備出張所)のプレハブ小屋が建っている。いくら私娼街が無くなっても風紀の悪さは変わらないし、
「市民大会では、警察署の署長の取り締まりの状況報告や市民の要望を伝えることが行われました。そこでは『正式な民間交番を作ってほしい』『あの場所を市が買い取って再開発をしてほしい』といった要望が出ました。すると世間の注目度が増し、マスコミなども取材に来て、店側にとって徐々に商売がやりにくくなっていったのです」
「2000(平成12)年8月に監視活動の拠点となる臨時警備出張所が開設され、同年9月には、環境浄化を訴える第1回街頭啓発活動がはじまりました。さらに2003(平成15)年12月には、相模原市が問題の地域の一角を公園用地として取得し、そこへ警備出張所を移転する計画を立てました。これが撲滅運動の拍車となり、2006(平成18)年1月に『たんぼ』の完全撲滅に成功することができました」と答えてくれた。
最後の様子に関して伺うと「『たんぼ』は撲滅運動に加えて、ある事故がもとで終わったのです。営業する店も少なくなったころ、空いていた建物に入っていたホームレスのせいか、ボヤが発生したのです。何軒も焼けて水をかけたり建物を壊したりして消火活動を行ったため、営業ができる状態ではなくなりました。その後立て直して営業を続けた店もありましたが、営業が続けられないと、最終的には地権者が建物を取り壊したのです」
「そしてこの成果が上がったことで、”ちょんの間”の存在に悩まされていた黄金町の中区役所や商店会が視察に来たりしました。撲滅運動成功の理由は、警察と市民と市が一体となって行動を起こしたことです」
「7~8年前から歳末防犯活動を、町田市と警視庁と相模原市と相模原警察署と市民の5団体で一緒に行っています。これからの目的は『さがみはら安全安心ステーション』を正式な民間交番にしてもらうこと。手を抜くと復活するので、監視をやめないことです」と答えてくれた。
現状に関して伺うと「今では道端などで声をかけてラブホテルに誘うやり方になっています。しかしラブホテルは法律により、一代限りしか営業権が認められていないため、時間が建てばこのホテル街もなくなることになります」と答えてくれた。
現在、法改正により風俗法が適用されるラブホテルは新規に許可を取ることが非常に困難です。
 また、既得権ラブホテル(法改正前に存在したラブホテル)については、個人許可の場合、相続や事業譲渡ができません。
 したがって、今後、新たにホテルの経営を始めようとする方は、風営法上のラブホテルに該当しないように気を付ける必要があります。
取材中、ホテル街を歩いていると、通行人を気にかけながら立っている、若い女性を見かけた。
また駅前の雑居ビルの前を歩いていると、立っていた女性から声をかけられた。
彼女たちが、現在の「たちんぼ」なのかもしれない。
この場所が以前田んぼであり住居に向かない土地で、所有者があいまいであったため、違法風俗店の営業がしやすかったのかもしれない。また東京の中心地に近い、という利便性も、発展させた理由と言えるだろう。いずれにしても以前の姿が復活することは難しそうだ。
この看板からもかなり若く見える女の子が
利用していたことがうかがわれる。
かってはJkが●●していた街、町田。
相変わらず、JKは円光をしているのだろうか。
ガールズバーの女の子たちもちらほらと立っている。
雨で男性客の少ない、今日は厳しいだろう。
年齢はかなり若い感じである。
しかしかってのようにJKはいない感じである。
今のJkはどこで稼いでいるのであろうか?
まぁ、あの頃のようにJKが働ける店はない。
少しこの界隈をJkを探して歩いてみる。
冷たい雨の町田の街は、JKどころか、
人がいない。
ここは独特の街の香りが漂っている。
田舎というわけではなく、かといって都会とは違う。
妙に落ち着く街。
都会の危険な香りはない。
だからといって安心できるわけでもない。
少しだけ危険な香りのする街である。
そう、円光少女たちが都会へ出るわけでもなく、
かといってど田舎でもなく、
ちょっと危険な遊びができる街が、町田だ。
数年ぶりに歩く町田は、
一見健全な街になったかと錯覚するが、
そんなことはない。
キャバクラの客引きも健在だし、
ガールズバーの女の子たちは、
スマホの画面を見つめている。
チラシを持ってはいるが、
配る男性客がいないのでどうにもならないのであろう。
地方都市ほど寂れていなく、
程よく男たちが少女たちの品定めをしていく。
駅前の繁華街から道路一本隔てると、
普通の住宅街である。
イメージとしてはかっての渋谷。
横浜にも東京にも出るにはちょっと遠い。
そして横浜や東京はちょっと怖い。
そんな少女たちがいる街。
そしてそのままキャバクラに勤めるか、
地元で結婚して普通に暮らしていくのか、
割とそんな少女たちが多いのではないだろうか。
東京からも横浜からもわざわざ出てくる
魅力のある街ではない。
しかしここだけで完結するので、
わざわざ東京や横浜に出ていく必要もない。
ガラパゴス化した街、それが町田ではないだろうか。
そしてここ町田には駅の裏側に
ラブホテル街は存在する。
賑やかな町田駅ではなく、
なぜここにラブホテルが密集しているのか
それはかって、この場所が
治安の悪い私娼窟だったことに由来する。
デリヘル等の無店舗型風俗店も多い。
それは駅近くにラブホテルが密集していることと、
そして私娼窟のあった場所からだろうか。
JKというブランドは出せないが、
確実に存在する空気がある。
普通に小さな個性的な飲み屋もあるので、
ただ飲み歩くも楽しい街である。
そう、かっての渋谷のように。
もう少し彷徨ってみるか。
かってこの界隈は『田んぼ』と呼ばれていた。
そう、かっては田んぼしかなかったのである。
しかし昭和34年に『東新楽天地』
という特殊飲食街ができた。
昭和34年と言えば昭和33年の翌年である。
もうお分かりであろう。
赤線が廃止された翌年である。
北口の明るい繁華街とは別に
影の街ができたのである。
境川沿いにホテル街もでき、売春婦が集まり、
それ目当ての男たちが集まってきたのだ。
かって、『田んぼ』の時代は、
本当に田んぼの中にポツンとある
女性が相手をしてくれる場所だったのである。
時が経ち日本人の売春婦がいなくなり
外国人売春婦が幅をきかせるようになった。
大久保もそうであるが日本各地に
かっての売春地帯は外国人娼婦に占められるようになる。
しかしベットタウンとしての町田が、
発展していくとともにそのような
風紀上よろしくない場所は排除されていく。
しかし、頑張って排除を試みたところで、
そこで生きていく輩がいる限り、
健全にはならない。
いまだに時代遅れのヤンキーを見ることのできる
ガラパゴス地帯でもある。
新宿からも横浜からも30分~40分で
くることのできる町田は
観光客に支配された新宿で遊ぶより
刺激もあり安心して遊ぶことのできる街かもしれない
だが緊張感無く飲んでいると痛い目も見そうである。
おしゃれなブティック、おしゃれなカフェ、
若い女の子の望むお店はそろっている。
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