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『鉄の女』マーガレット・サッチャーに見る高市内閣の行方

天使か悪魔か

鉄の女「サッチャー」

今回ご紹介するのはイギリスの元首相、「鉄の女」こと、マーガレット・サッチャーです。
高市早苗総理はマーガレットサッチャーと似ている部分もあるように思います。
そこでマーガレット・サッチャーについて語っていきたいと思います。
マーガレット・サッチャーは、1925年生まれのイギリスの政治家で、1979年から1990年までイギリスの首相を務め、「鉄の女」の異名で知られています。
イギリス史上初の女性首相であり、20世紀のイギリスにおいて最も長く首相の座にあった人物です。
マーガレット・サッチャーに対する評価は、同時代から現在まで極端に分かれています。
ある者は彼女を最高の政治家だと絶賛し、またある者は悪の化身だと評価します。
なぜこれほどまでに評価が分かれるのでしょうか。
サッチャーに対する評価は、そのまま新自由主義に対する評価という側面があります。
ここで新自由主義について簡単に解説しておきます。学生時代に学んだことを思い出しながら聞いてください。
新自由主義、(ネオリベラリズム)という言葉が生まれたのは、第二次世界大戦直前の1938年だと言われています。
その後、様々な学者が新自由主義を含めた資本主義のあり方について議論を続け、1976年に、ミルトン・フリードマンがノーベル経済学賞を受賞します。
20世紀後半に限れば、フリードマンほど各国の経済政策に影響を与えた人物はいないかもしれません。
世界恐慌を経て、市場に対して、どれほど国家が介入すべきかが問われた時代です。
これに対し、イギリスの経済学者ケインズは、国家の中程度の介入を是とする通称「ケインズ経済学」を提唱しました。
これは「修正資本主義」とも呼ばれます。
「レッセフェール」(なすままに任せよ)と訳される経済原理が、アダム・スミス以来の経済政策の基本であったため、世界恐慌が起きた後もアメリカ政府はその原則に従って状況を静観しました。
しかし、それが最悪ともいえる結果をもたらしたのです。
ケインズ主義はその反省から生まれたとも言えます。
フリードマンはそのようなケインズ主義を徹底的に批判しました。
彼は「シカゴ学派」と呼ばれる一派を形成し、各種公的組織の民営化や、国家による経済への積極的不介入を唱えました。
いわゆる「小さな政府」という考え方です。
1980年代後半以降、資本主義陣営の多くは、このフリードマンの著書『資本主義と自由』をもとに経済政策を策定していったと言えるでしょう。
主な実践者は、アメリカのレーガン、イギリスのサッチャー、日本の田中角栄、そして小泉純一郎などです。
日本の郵政民営化もその流れの一つと言われています。
これらの政権に共通していることは、金持ちはますます金持ちになり、中間層は没落し、貧困層はますます貧困になっていったことです。
大事な事なのでもう一度言います。
これらの政権に共通していることは、金持ちはますます金持ちになり、中間層は没落し、貧困層はますます貧困になっていったことです。
アメリカや日本だけでなく、イギリスでも同様のことが起こりました。
サッチャーが首相になった時、イギリスはすでに「瀕死」と言われる状態でした。
サッチャーはその原因を、「ゆりかごから墓場まで」と言われたイギリスの社会保障制度にあるとしました。
そこで、サッチャーは福祉事業や社会保障をバッサリと切り捨てたのです。
貧困層の切り捨てです。
果たして彼女は悪魔なのか、救世主なのか?
今回はそんな賛否両論渦巻くイギリス首相、マーガレット・サッチャーについて語っていきます。
今回ご紹介するのはイギリスの元首相、「鉄の女」、こと、マーガレット・サッチャーです。
高市早苗総理はマーガレットサッチャーと似ている部分もあるように思います。そこでマーガレット・サッチャーについて語っていきたいと思います。
マーガレット・サッチャーは、1925年生まれのイギリスの政治家で、1979年から1990年までイギリスの首相を務め、「鉄の女」の異名で知られています。
イギリス史上初の女性首相であり、20世紀のイギリスにおいて最も長く首相の座にあった人物です。
マーガレット・サッチャーに対する評価は、同時代から現在まで極端に分かれています。
ある者は彼女を最高の政治家だと絶賛し、またある者は悪の化身だと評価します。
なぜこれほどまでに評価が分かれるのでしょうか。
サッチャーに対する評価は、そのまま新自由主義に対する評価という側面があります。
ここで新自由主義について簡単に解説しておきます。学生時代に学んだことを思い出しながら聞いてください。
新自由主義、(ネオリベラリズム)、という言葉が生まれたのは、第二次世界大戦直前の1938年だと言われています。
その後、様々な学者が新自由主義を含めた資本主義のあり方について議論を続け、1976年に、ミルトン・フリードマンがノーベル経済学賞を受賞します。
20世紀後半に限れば、フリードマンほど各国の経済政策に影響を与えた人物はいないかもしれません。
世界恐慌を経て、市場に対して、どれほど国家が介入すべきかが問われた時代です。
これに対し、イギリスの経済学者ケインズは、国家の中程度の介入を是とする通称「ケインズ経済学」を提唱しました。
これは「修正資本主義」とも呼ばれます。
「レッセフェール」、(なすままに任せよ)、と訳される経済原理が、アダム・スミス以来の経済政策の基本であったため、世界恐慌が起きた後もアメリカ政府はその原則に従って状況を静観しました。
しかし、それが最悪ともいえる結果をもたらしたのです。
ケインズ主義はその反省から生まれたとも言えます。
フリードマンはそのようなケインズ主義を徹底的に批判しました。
彼は「シカゴ学派」と呼ばれる一派を形成し、各種公的組織の民営化や、国家による経済への積極的不介入を唱えました。
いわゆる「小さな政府」、という考え方です。
1980年代後半以降、資本主義陣営の多くは、このフリードマンの著書『資本主義と自由』をもとに経済政策を策定していったと言えるでしょう。
主な実践者は、アメリカのレーガン、イギリスのサッチャー、日本の田中角栄、そして小泉純一郎などです。
日本の郵政民営化もその流れの一つと言われています。
これらの政権に共通していることは、金持ちはますます金持ちになり、中間層は没落し、貧困層はますます貧困になっていったことです。
大事なのことなのでもう一度言います。
これらの政権に共通していることは、金持ちはますます金持ちになり、中間層は没落し、貧困層はますます貧困になっていったことです。
アメリカや日本だけでなく、イギリスでも同様のことが起こりました。
サッチャーが首相になった時、イギリスはすでに「瀕死」と言われる状態でした。
サッチャーはその原因を、「ゆりかごから墓場まで」と言われたイギリスの社会保障制度にあるとしました。
そこで、サッチャーは福祉事業や社会保障をバッサリと切り捨てたのです。
貧困層の切り捨てです。
果たして彼女は悪魔なのか、救世主なのか?
今回はそんな賛否両論渦巻くイギリス首相、マーガレット・サッチャーについて語っていきます。
それでは、マーガレット・サッチャーの生い立ちから見ていきましょう。
マーガレット・ヒルダ・ロバーツは、1925年10月13日にリンカンシャーのグランサムで生まれました。よく知られる「サッチャー」の名は、結婚相手の姓です。
「ほとんどすべてのことは父のおかげです」とマーガレットが後に語る父、アルフレッド・ロバーツは、グランサムで食料品店を営んでいました。
マーガレットはその2階で生まれています。
アルフレッドは後にグランサムの市長になるほどなので、かなり裕福だったと言ってよいでしょう。
貴族ではないという意味では庶民ですが、政治家の娘という意味では富裕層だったと言えます。
彼女を形成したのはメソジストの教えでした。
メソジストといってもなじみのない言葉だと思いますので、ここでメソジストについて解説します。
メソジストは、18世紀にイギリスでジョン・ウェスレーとチャールズ・ウェスレーの兄弟によって始められたキリスト教プロテスタントの一派です。
当初はイングランド国教会(聖公会)内の改革運動として始まりましたが、後に独立した教派となりました。
「メソジスト(Methodist)」という名前は、「秩序だった(methodical)」生活態度や信仰実践を重視したことから、批判的に用いられたあだ名が定着したものです。
メソジストの主な教えと特徴についてです。

個人の信仰と悔い改め:
すべての人が神の恵みによって救われる可能性を持つと信じます。
個人が自らの罪を認め、悔い改めて神に立ち返ることが重要であると教えます。
聖化(きよめ)の教義:
救われた後も、信徒は聖霊の働きによって「きよめ」を目指し、より神に似た者となることができると教えます。
これは、単に罪を犯さないだけでなく、愛と聖さにおいて成長し続けることを意味します。
この教えは、信徒の倫理的・道徳的な向上を強く促します。
社会への奉仕と実践的な信仰:
信仰は個人的なもので終わらず、社会における実践的な愛と奉仕として表されるべきだと強調します。
貧しい人々、病気の人々、囚人など、社会的に弱い立場にある人々への具体的な支援を重視します。
これは、教育、医療、社会福祉活動に熱心に取り組むメソジストの特徴として現れています。
「自己責任と自助努力」の重視:
マーガレット・サッチャーが特に影響を受けたとされるのがこの点です。
メソジストの教えは、信徒が怠惰を排し、勤勉に働き、自らの生活と信仰に責任を持つことを強く求めます。
神から与えられた才能や機会を最大限に活かし、努力して社会に貢献することが善であると考えられました。
他者に依存せず、自らの力で問題を解決しようとする精神が奨励されたのです。
禁欲主義と規律:
飲酒、ギャンブル、贅沢な生活などを戒め、質素で規律正しい生活を送ることを重視します。
これは、ウェスレー兄弟が信徒たちに厳格な規則と生活規範を求めたことに由来します。
聖書の権威:
聖書を信仰と生活の唯一の規範として尊重し、その教えを深く学び、実践することを奨励します。

この教えが、マーガレット・サッチャーへ大きな影響を与えたのです。
サッチャーは熱心なメソジストの家庭で育ち、この教えから特に「自己責任と自助努力」の精神を強く受け継ぎました。
これが彼女の政治信条である新自由主義(国家による介入を最小限にし、個人の自由な経済活動を尊重する考え方)と結びついたと言われています。
彼女は、国民一人ひとりが自らの力で立ち上がり、国家に過度に依存しない社会を目指しました。
そのため、福祉制度の削減や国有企業の民営化といった政策を推進する際に、メソジストの教えで培われた「勤勉」「規律」「自己責任」といった価値観が、彼女の行動原理の根底にあったと考えられています。
メソジストの教えは、個人の倫理的な向上だけでなく、社会的な責任と実践を重視する、非常に活動的な信仰形態であると言えます。

「私は熱烈な宗教的な家庭に生まれた」とマーガレットは後に語っています。
彼女の一家はかなり熱心なメソジストでした。
メソジストはキリスト教の一派で、イギリスで特に盛んです。
マーガレット・サッチャーという人物を作り上げたのは、メソジストの教えだったと言ってよいほど、彼女はその強い影響を受けています。
「メソジズムを中心に回っていた」と彼女が後に語るとおり、マーガレットの生活はメソジストとしての活動が中心でした。
日曜日の朝には家族で礼拝に行き、夕方の礼拝も欠かしませんでした。
マーガレットと姉は午前と午後の日曜学校にも参加し、12歳になると讃美歌の伴奏をするためにオルガンを弾く仕事も加わりました。
本当にメソジズム中心の生活だったのです。
「自己責任と自助努力」、これがメソジストの教えの核であり、これが新自由主義と結びつき、後のサッチャーの政治的信念にもなりました。

なお、彼女は政治的な理由で下院議員選挙に当選した直後に、イギリス国教会に改宗しています。
メソジストはイギリス国教会から派生した一派であり、マーガレット自身もそれほど改宗に抵抗はなかったようです。
彼女の一家が信奉していたのはメソディストの一派でしたが、その創始者であるジョン・ウェスリー自身、最後までイギリス国教会の教徒だったこともあり、非常に距離が近かったようです。
キリスト教といっても色々な宗派があり、プロテスタントといっても様々です。
プロテスタントは概して禁欲的な面を持ちますが、メソジストはその中でも特に厳格だったと言えます。
ですので、人にも自分にも厳しいわけです。

マーガレットが成長すると共に、父アルフレッドの事業も拡大し、次第に政治活動にのめりこむようになります。
アルフレッドは長年、市議会の財政委員会の要職にあり、「グランサムの大蔵大臣」と呼ばれていました。
マーガレットはそういった部分も引き継いでいったようです。
1945年にアルフレッドはグランサムの市長に就任し、貯蓄銀行の管財人、商工会議所のトップ、学校の理事長、ロータリークラブの会長などを歴任しました。
まさに地元の名士だったわけです。
一方、マーガレットは17歳から名門中の名門であるオックスフォード大学に入学しています。
そこに至るまで、彼女はかなり厳格に育てられたようです。
「他の人がやっているからといって同じことをやるな」とアルフレッドはマーガレットに対し、事あるごとにそう言い聞かせたと言います。
ダンスを習いたいと言った時も、映画に行きたいと言った時も、彼女は父にそう言われて育ちました。
なお、父から何度も言われた言葉を、首相になったマーガレットは閣僚たちに対し繰り返し述べたと言います。

オックスフォード大学に入学したマーガレットは、サマーヴィル・カレッジにて科学を学びました。
オックスフォードの街にはいくつかのカレッジがあり、その総称をオックスフォード大学と呼んでいます。
サマーヴィル・カレッジは1878年に女性の高等教育を認める運動の中で設立されたカレッジで、メアリー・サマーヴィルという女性科学者の名前にちなんで名前がつけられています。
女性が多いのか、と問われれば、歴代の卒業生の中には、マーガレットのほかにも、インドの首相となるネルーの娘インディラ・ガンディーや、作家のドロシー・L・セイヤーズ、ノーベル化学賞を受賞した女性化学者ドロシー・ホジキンなどがいます。
そうそうたるメンバーです。
サマーヴィル・カレッジはリベラルな校風だったので、保守党を支持し政治活動に熱心だったマーガレットは、かなり浮いた存在だったようです。
マーガレットはこの頃から政治活動に熱心でした。
専攻は科学でしたが、やはり父の影響が大きかったようです。
彼女は1946年にはオックスフォード大学保守協会の会長となっています。
彼女は大学では抗生物質の研究をしながら保守党党員としての政治活動を行い、その傍らで法律や経済の勉強もしていました。
彼女は勤勉すぎるほど勤勉でした。
「鉄の女」の異名は伊達ではありません。
彼女はかなりの読書家で、中でもフリードリヒ・ハイエクの書いた本には大きな影響を受けたようです。
フリードリヒ・ハイエク(Friedrich Hayek, 1899-1992)は、オーストリア出身の経済学者・思想家で、20世紀における最も影響力のあるリベラル思想家の一人です。彼は特に、市場経済の擁護と社会主義・中央計画経済への批判で知られています。
ハイエクの思想は、20世紀後半の自由主義経済学や保守主義思想に大きな影響を与えました。
特に、マーガレット・サッチャーやロナルド・レーガンといった政治家たちの政策に影響を与え、新自由主義の台頭を促したとも言われています。
後に「サッチャリズム」と呼ばれる新自由主義的思考は、大学時代に形成されたと言ってよいでしょう。
ただ、マーガレット自身は科学者を目指していたようで、1947年に学士号にて科学の学位を取得し、卒業後は化学会社に就職しています。
それでは、マーガレット・サッチャーの生い立ちから見ていきましょう。
マーガレット・ヒルダ・ロバーツは、1925年10月13日にリンカンシャーのグランサムで生まれました。よく知られる、「サッチャー」、の名は、結婚相手の姓です。
「ほとんどすべてのことは父のおかげです」と、マーガレットがのちに語る父、アルフレッド・ロバーツは、グランサムで食料品店を営んでいました。
マーガレットはその2階で生まれています。
アルフレッドはのちにグランサムの市長になるほどなので、かなり裕福だったと言ってよいでしょう。
貴族ではないという意味では庶民ですが、せいじかの娘という意味では富裕層だったと言えます。
彼女を形成したのはメソジストの教えでした。
メソジストといってもなじみのない言葉だと思いますので、ここでメソジストについて解説します。
メソジストは、18世紀にイギリスでジョン・ウェスレーとチャールズ・ウェスレーの兄弟によって始められたキリスト教プロテスタントの一派です。
当初はイングランド国教会、(聖公会)、内の改革運動として始まりましたが、後に独立した教派となりました。
「メソジスト」、という名前は、「秩序だった、(methodical)」、生活態度や信仰実践を重視したことから、批判的に用いられたあだ名が定着したものです。
メソジストの主な教えと特徴についてです。

個人の信仰と悔い改め:
すべての人が神の恵みによって救われる可能性を持つと信じます。
個人が自らの罪を認め、悔い改めて神に立ち返ることが重要であると教えます。
きよめの教義:
救われた後も、信徒は聖霊の働きによって「きよめ」を目指し、より神に似た者となることができると教えます。
これは、単に罪を犯さないだけでなく、愛と聖さにおいて成長し続けることを意味します。
この教えは、信徒の倫理的・道徳的な向上を強く促します。
社会への奉仕と実践的な信仰:
信仰は個人的なもので終わらず、社会における実践的な愛と奉仕として表されるべきだと強調します。
貧しい人々、病気の人々、囚人など、社会的に弱い立場にある人々への具体的な支援を重視します。
これは、教育、医療、社会福祉活動に熱心に取り組むメソジストの特徴として現れています。
「自己責任と自助努力」の重視:
マーガレット・サッチャーが特に影響を受けたとされるのがこの点です。
メソジストの教えは、信徒が怠惰を排し、勤勉に働き、自らの生活と信仰に責任を持つことを強く求めます。
神から与えられた才能や機会を最大限に活かし、努力して社会に貢献することが善であると考えられました。
他者に依存せず、自らの力で問題を解決しようとする精神が奨励されたのです。
禁欲主義と規律:
飲酒、ギャンブル、贅沢な生活などを戒め、質素で規律正しい生活を送ることを重視します。
これは、ウェスレー兄弟が信徒たちに厳格な規則と生活規範を求めたことに由来します。
聖書の権威:
聖書を信仰と生活の唯一の規範として尊重し、その教えを深く学び、実践することを奨励します。

この教えが、マーガレット・サッチャーへ大きな影響を与えたのです。
サッチャーは熱心なメソジストの家庭で育ち、この教えから特に、「自己責任と自助努力」、の精神を強く受け継ぎました。
これが彼女の政治信条である新自由主義、(国家による介入を最小限にし、個人の自由な経済活動を尊重する考え方)、と結びついたと言われています。
彼女は、国民一人ひとりが自らの力で立ち上がり、国家に過度に依存しない社会を目指しました。
そのため、福祉制度の削減や国有企業の民営化といった政策を推進する際に、メソジストの教えで培われた「勤勉」、「規律」、「自己責任」、といった価値観が、彼女の行動原理の根底にあったと考えられています。
メソジストの教えは、個人の倫理的な向上だけでなく、社会的な責任と実践を重視する、非常に活動的な信仰形態であると言えます。

「私は熱烈な宗教的な家庭に生まれた」、とマーガレットは後に語っています。
彼女の一家はかなり熱心なメソジストでした。
メソジストはキリスト教の一派で、イギリスで特に盛んです。
マーガレット・サッチャーという人物を作り上げたのは、メソジストの教えだったと言ってよいほど、彼女はその強い影響を受けています。
「メソジズムを中心に回っていた」、と彼女がのちに語るとおり、マーガレットの生活はメソジストとしての活動が中心でした。
日曜日の朝には家族で礼拝に行き、夕方の礼拝も欠かしませんでした。
マーガレットと、姉は午前と午後の日曜学校にも参加し、12歳になると讃美歌の伴奏をするためにオルガンを弾く仕事も加わりました。
本当にメソジズム中心の生活だったのです。
「自己責任と自助努力」、これがメソジストの教えの核であり、これが新自由主義と結びつき、のちのサッチャーの政治的信念にもなりました。

なお、彼女は政治的な理由で下院議員選挙に当選した直後に、いぎりす国教会に改宗しています。
メソジストはいぎりす国教会から派生した一派であり、マーガレット自身もそれほど改宗に抵抗はなかったようです。
彼女の一家が信奉していたのはメソディストの一派でしたが、その創始者であるジョン・ウェスリー自身、最後までいぎりす国教会の教徒だったこともあり、非常に距離が近かったようです。
キリスト教といっても色々な宗派があり、プロテスタントといっても様々です。
プロテスタントは概して禁欲的な面を持ちますが、メソジストはその中でも特に厳格だったと言えます。
ですので、人にも自分にも厳しいわけです。

マーガレットが成長すると共に、父アルフレッドの事業も拡大し、次第に政治活動にのめりこむようになります。
アルフレッドは長年、市議会の財政委員会の要職にあり、「グランサムの大蔵大臣」と呼ばれていました。
マーガレットはそういった部分も引き継いでいったようです。
1945年にアルフレッドはグランサムの市長に就任し、貯蓄銀行の管財人、商工会議所のトップ、学校の理事長、ロータリークラブの会長などを歴任しました。
まさに地元の名士だったわけです。
一方、マーガレットは17歳から名門中の名門であるオックスフォード大学に入学しています。
そこに至るまで、彼女はかなり厳格に育てられたようです。
「他の人がやっているからといって同じことをやるな」、とアルフレッドはマーガレットに対し、事あるごとにそう言い聞かせたと言います。
ダンスを習いたいと言った時も、映画に行きたいと言った時も、彼女は父にそう言われて育ちました。
なお、父から何度も言われた言葉を、首相になったマーガレットは閣僚たちに対し繰り返し述べたと言います。

オックスフォード大学に入学したマーガレットは、サマーヴィル・カレッジにて科学を学びました。
オックスフォードの街にはいくつかのカレッジがあり、その総称をオックスフォード大学と呼んでいます。
サマーヴィル・カレッジは1878年に女性の高等教育を認める運動の中で設立されたカレッジで、メアリー・サマーヴィルという女性科学者の名前にちなんで名前がつけられています。
女性が多いのか、と問われれば、歴代の卒業生の中には、マーガレットのほかにも、インドの首相となるネルーの娘インディラ・ガンディーや、作家のドロシー・L・セイヤーズ、ノーベル化学賞を受賞した女性化学者ドロシー・ホジキンなどがいます。
そうそうたるメンバーです。
サマーヴィル・カレッジはリベラルな校風だったので、保守党を支持し政治活動に熱心だったマーガレットは、かなり浮いた存在だったようです。
マーガレットはこの頃から政治活動に熱心でした。
専攻は科学でしたが、やはり父の影響が大きかったようです。
彼女は1946年にはオックスフォード大学保守協会の会長となっています。
彼女は大学では抗生物質の研究をしながら保守党党員としての政治活動を行い、その傍らで法律や経済の勉強もしていました。
彼女は勤勉すぎるほど勤勉でした。
「鉄の女」、の異名は伊達ではありません。
彼女はかなりの読書家で、中でもフリードリヒ・ハイエクの書いた本には大きな影響を受けたようです。
フリードリヒ・ハイエク(1899年から1992年)は、オーストリア出身の経済学者・思想家で、20世紀における最も影響力のあるリベラル思想家の一人です。彼は特に、市場経済の擁護と社会主義・中央計画経済への批判で知られています。
ハイエクの思想は、20世紀後半の自由主義経済学や保守主義思想に大きな影響を与えました。特に、マーガレット・サッチャーやロナルド・レーガンといった政治家たちの政策に影響を与え、新自由主義の台頭を促したとも言われています。
後に、「サッチャリズム」、と呼ばれる新自由主義的思考は、大学時代に形成されたと言ってよいでしょう。
ただ、マーガレット自身は科学者を目指していたようで、1947年に学士号にて、科学の学位を取得し、卒業後は化学会社に就職しています。
同級生の話だと、マーガレットは優秀だが科学的な創造性には欠けていたと言います。
彼女もそのことが分かっていたのか、政治の世界にのめり込んでいくことになります。
デニス・サッチャーに出会ったのもこの頃です。
名前に「サッチャー」と入っているので、マーガレットと結婚する相手だと分かります。
マーガレットは1950年の総選挙に、わずか23歳の若さで立候補しました。
日本では考えられない若さですが、イギリスでも異例のことで最年少候補者として注目を浴びたようです。
残念ながら選挙には落選しましたが、その直後にデニスと結婚し、マーガレット・ロバーツからマーガレット・サッチャーになりました。
ちなみにデニスは、親から会社を継いだ経営者でした。
2人は保守党協会の集会で出会い、そして結婚したのです。
デニスは生涯にわたってマーガレットの良き理解者であったようです。
結婚を機に、サッチャーは法律を本格的に学び、1953年には弁護士資格を取得しました。
そして同じ歳には双子を出産しています。
そして1959年、サッチャーは下院議員に初当選しました。
政治家マーガレット・サッチャーの誕生です。
なお、この時期は家族関係が良好とは言い難かったようで、デニスは精神的な負担が増大し、会社を売り払っています。
デニスはサッチャーの支援をするようになるのですが、子供たちとの溝もどんどん深まっていき、特に息子の方は数々のスキャンダルを起こすことになります。
政治家、サッチャーの子供のスキャンダルです。特にサッチャーが首相になってから、それが露呈するようになります。
政治家としてのサッチャーは多忙を極めました。1961年にはマクミラン内閣において、年金・国家保険省の議会次官に就任し、着々と保守党内部で頭角を現すようになります。
子供の面倒はベビーシッターが見ていたそうです。
なお、そのベビーシッターは「彼女はウルトラがつくほど能率的に赤ちゃんの面倒を見ていて、落ち度を探す方が難しかった」と言います。
1970年にヒース内閣が誕生すると、サッチャーは教育大臣として初の入閣を果たします。
そして彼女はそこでこう呼ばれることになります。「ミルク泥棒」と。
なぜ、サッチャーは「ミルク泥棒」と呼ばれる教育大臣となったのでしょうか。
サッチャーの政策はいわば弱者の切り捨てで、その軸がぶれたことはありません。
弱者切り捨て、これは弱者への自己責任というメソジストの教えに起因すると考えることができます。
一事が万事とはよく言ったものですが、教育大臣時代のサッチャーの政策は、彼女の政治的信条がよく出ていると言えるでしょう。
この時すでにイギリスの財政は破綻していました。
ゆりかごから墓場まで国家で面倒を見るという事は国家の滅亡への第一歩であったと私は考えます。
イギリス財政はすでに破綻していたため、当時のヒース内閣は各省庁に予算の切り詰めを指示しました。
そこでサッチャーは、学校給食において学童に対して行なっていたミルクの無償提供を廃止したのです。
この行動は野党の格好の餌食となりました。
サッチャーはイギリス中から「ミルク泥棒」と非難されたのでした。
結局、ヒース内閣は経済を回復することもできず、選挙に敗北し、1974年に内閣は総辞職しました。
イギリスでは労働党が与党となり、首相には再びウィルソンが就任しました。
しかし、同じことでした。「イギリス病」は進行し、ウィルソン内閣はひたすら迷走したのです。
ウィルソンは結局、1976年には辞職し、外相だったジェームズ・キャラハンが首相となります。
しかし、キャラハンに何ができるというわけでもありませんでした。
不況は続き、失業者は増え、インフレは進み、労働者は賃上げを要求し、ついには公務員までもがストライキを起こす始末です。
本当にイギリスは重病人のような状況でした。
一方、そのころサッチャーは保守党の党首となっていました。
ついに最大野党の党首にまで上り詰めたのです。
1979年、キャラハンは何の実績もないまま総選挙に臨み、そして敗北しました。

「イギリスの政権交代は野党の勝利ではなく、与党の敗北によってもたらされる」という言葉どおり、労働党への不信によって再び保守党が第一党になったのでした。
なんとなくデジャブ感があります。日本の政治制度はイギリスに倣っている部分が多いからです。
いずれにせよ、こうしてイギリス史上初の女性首相、マーガレット・サッチャーが誕生しました。
日本も含め、先進国と呼ばれる国々において女性のトップが誕生したのはこれが初です。
日本にもついに高市早苗という日本史上初の女性総理が誕生しました。
各国で女性議員が増えるようになるのは、サッチャー政権誕生以降のことです。
「鉄の女」と呼ばれたサッチャーは数々の改革に挑みます。
「アイアン・レディー」、人々はサッチャーのことをそう呼びました。
彼女はその名の通り鉄の意志を持って数々の改革に取り組んでいくことになります。
一体どんなことを行ったのでしょうか。
彼女の人気はおよそ10年に及び、その間に彼女が、行ったことは多岐にわたります。
その中でも大きかったのが社会保障の切り捨てと戦争でしょう。
どちらも穏やかな響きではありません。
社会保障の問題は、現代政治における最大の問題点と言っても良いでしょう。
社会保障に関しては様々な意見が存在しますが、サッチャーは「ゆりかごから墓場まで」と言われる手厚い社会保障こそが「イギリス病」の最大の原因であると断じました。
今の日本も過大な福祉でおかしくなりかけていると思います。
特に外国人に対して日本人以上に優遇措置を与えていることです。その大きな原因は公明党が政権与党にいたことが大きいと思います。
現在公明党は連立離脱したので日本復活のための政策がとりやすくなっています。
イギリスの話に戻しましょう。労働党のアトリー内閣の時に社会保障を充実させたのです。
そして国民はそれを支持し、チャーチル内閣は退陣したわけです。
サッチャーの社会保障政策について述べる前に、まずは当時のイギリスの状況を再確認したいと思います。
当時のイギリスはインフレと失業率の増加が同時に進行している状態でした。
第二次世界大戦以前からイギリスの財政は破綻状態にありましたが、大戦によってそれがさらに加速してしまった面もあります。
ずっと戦争をしていたせいです。戦争は国を披露させる大きな原因でもあるのです。
二次大戦後、インドやパキスタンなど多くの海外植民地がイギリスから独立していきました。
イギリスは当初それを妨害するつもりでしたが、すでにイギリスにはそのような力はありませんでした。
何よりイギリス国民がこれ以上の戦いを望まなかったのです。
戦争も終わった後に、国民が望んだのは平和な時代でした。
だからこそ国民はチャーチル率いる保守党ではなく、アトリー率いる労働党を支持したのです。
アトリーは社会保障を充実させましたが、経済を回復させることはできませんでした。
その後の歴代内閣も経済を回復させることはできず、イギリスの経済は西ドイツや日本といった二次大戦の敗戦国にさえ抜かれてしまうのです。
イギリス人のショックの大きさが想像できます。
そして1973年に起きたオイルショックがイギリス経済にとどめを刺しました。
このオイルショックにより、石油価格は4倍になり、それに伴って世界中でインフレーションが起こりました。
このオイルショックは、高齢の方なら記憶にあるかもしれません。物価高騰で日本でも庶民は大変でした。
当然のごとく労働者は賃上げを要求しました。
物価が上がり、何も買えなくなります。
労働者は団結し、労働運動を行ったわけですが、マーガレット・サッチャーはそれに対して労働組合法の改正で対抗し、組合の力を削いだのでした。
そのほか「サッチャリズム」と呼ばれる政策を取り、イギリス経済を立て直す一方で、初期には失業率の増加や地域間の格差拡大といった社会的な痛みを伴いました。
それが、悪魔ともいわれるゆえんです。
弱者の切り捨てというか、富裕層の力によって国家を立て直そうという政策です。

イギリスとアメリカは俗に二大政党制と呼ばれており、アメリカでは一般的に共和党を富裕層が、民主党を一般層が支持する傾向にあります。
イギリスはかつては保守党と自由党が二大政党でしたが、この時代には保守党と労働党が二大政党となっていました。
労働党は文字通り労働者が支持し、保守党は資本家をはじめとした富裕層が支持母体です。
サッチャーはバリバリの保守党員でした。
持つ者と持たざる者の対立は一次大戦の原因となりましたが、人類はその問題を現在でも乗り越えられていません。
労働者が支持する労働党にとって、格差是正は至上命題でした。
労働者が政治に最も期待するのはその一点です。
ゆえに累進課税制度などを推進し、格差是正のための社会保障を手厚くしたわけです。
しかしサッチャーにとって、そのような政策は唾棄すべき愚策でしかありませんでした。
サッチャーは労働組合を「内なる敵」と呼んで攻撃し続けました。
そしてサッチャーは勝利したのです。
決め手となったのは、労働組合側のスキャンダルでした。
当時、イギリス最大の労働組合は炭鉱労働者からなるNUM(全国炭鉱労働組合)でした。
同級生の話だと、マーガレットは優秀だが科学的な創造性には欠けていたと言います。
彼女もそのことが分かっていたのか、政治の世界にのめり込んでいくことになります。
デニス・サッチャーに出会ったのもこの頃です。
名前に、「サッチャー」、と入っているので、マーガレットと結婚する相手だと分かります。
マーガレットは1950年の総選挙に、わずか23歳の若さで立候補しました。
日本では考えられない若さですが、イギリスでも異例のことで最年少候補者として注目を浴びたようです。
残念ながら選挙には落選しましたが、その直後にデニスと結婚し、マーガレット・ロバーツからマーガレット・サッチャーになりました。
ちなみにデニスは、親からかいしゃを継いだ経営者でした。
2人は保守党協会の集会で出会い、そして結婚したのです。
デニスは生涯にわたってマーガレットの良き理解者であったようです。
結婚を機に、サッチャーは法律を本格的に学び、1953年には弁護士資格を取得しました。
そして同じ歳には双子を出産しています。
そして1959年、サッチャーは下院議員に初当選しました。
政治家マーガレット・サッチャーの誕生です。
なお、この時期は家族関係が良好とは言い難かったようで、デニスは精神的な負担が増大し、会社を売り払っています。
デニスはサッチャーの支援をするようになるのですが、子供たちとの溝もどんどん深まっていき、特に息子のほうは数々のスキャンダルを起こすことになります。
せいじか、サッチャーの子供のスキャンダルです。特にサッチャーが首相になってから、それが露呈するようになります。
政治家としてのサッチャーは多忙を極めました。1961年にはマクミラン内閣において、年金・国家保険省の議会次官に就任し、着々と保守党内部で頭角を現すようになります。
子供の面倒はベビーシッターが見ていたそうです。
なお、そのベビーシッターは、「彼女はウルトラがつくほど能率的に赤ちゃんの面倒を見ていて、落ち度を探す方が難しかった」、と言います。
1970年にヒース内閣が誕生すると、サッチャーは教育大臣として初の入閣を果たします。
そして彼女はそこでこう呼ばれることになります。「ミルク泥棒」、と。
なぜ、サッチャーは、「ミルク泥棒」、と呼ばれる教育大臣となったのでしょうか。
サッチャーの政策はいわば弱者の切り捨てで、その軸がぶれたことはありません。
弱者切り捨て、これは弱者への自己責任というメソジストの教えに起因すると考えることができます。
一事が万事とはよく言ったものですが、教育大臣時代のサッチャーの政策は、彼女の政治的信条がよく出ていると言えるでしょう。
この時すでにイギリスの財政は破綻していました。
ゆりかごから墓場まで国家で面倒を見るという事は国家の滅亡への第一歩であったと私は考えます。
イギリス財政はすでに破綻していたため、当時のヒース内閣は各省庁に予算の切り詰めを指示しました。
そこでサッチャーは、学校給食において学童に対して行なっていたミルクの無償提供を廃止したのです。
この行動は野党の格好の餌食となりました。
サッチャーはイギリスじゅうから、「ミルク泥棒」、と非難されたのでした。
結局、ヒース内閣は経済を回復することもできず、選挙に敗北し、1974年に内閣は総辞職しました。
イギリスでは労働党が与党となり、首相には再びウィルソンが就任しました。
しかし、同じことでした。「イギリス病」は進行し、ウィルソン内閣はひたすら迷走したのです。
ウィルソンは結局、1976年には辞職し、外相だったジェームズ・キャラハンが首相となります。
しかし、キャラハンに何ができるというわけでもありませんでした。
不況は続き、失業者は増え、インフレは進み、労働者は賃上げを要求し、ついには公務員までもがストライキを起こす始末です。
本当にイギリスは重病人のような状況でした。
一方、そのころサッチャーは保守党の党首となっていました。
ついに最大野党の党首にまで上り詰めたのです。
1979年、キャラハンは何の実績もないまま総選挙に臨み、そして敗北しました。

「イギリスの政権交代は野党の勝利ではなく、与党の敗北によってもたらされる」、という言葉どおり、労働党への不信によって再び保守党が第いっとうになったのでした。
なんとなくデジャブ感があります。日本の政治制度はイギリスに倣っている部分が多いからです。
いずれにせよ、こうしてイギリス史上初の女性首相、マーガレット・サッチャーが誕生しました。
日本も含め、先進国と呼ばれる国々において女性のトップが誕生したのはこれが初です。
日本にもついみ高市早苗という日本史上初の女性総理が誕生しました。
各国で女性議員が増えるようになるのは、サッチャー政権誕生以降のことです。
「鉄の女」と呼ばれたサッチャーは数々の改革に挑みます。
「アイアン・レディー」、人々はサッチャーのことをそう呼びました。
彼女はその名の通り鉄の意志を持って数々の改革に取り組んでいくことになります。
一体どんなことをおこなったのでしょうか。
彼女の人気はおよそ10年に及び、そのあいだに彼女がおこなったことは多岐にわたります。
その中でも大きかったのが社会保障の切り捨てと戦争でしょう。
どちらも穏やかな響きではありません。
社会保障の問題は、現代政治における最大の問題点と言っても良いでしょう。
社会保障に関しては様々な意見が存在しますが、サッチャーは、「ゆりかごから墓場まで」、と言われる手厚い社会保障こそが、「イギリス病」、の最大の原因であると断じました。
今の日本も過大な福祉でおかしくなりかけていると思います。
特に外国人に対して日本人以上に優遇措置を与えていることです。その大きな原因は公明党が政権与党にいたことが大きいと思います。
現在公明党は連立離脱したので日本復活のための政策がとりやすくなっています。
イギリスの話に戻しましょう。労働党のアトリー内閣の時に社会保障を充実させたのです。
そして国民はそれを支持し、チャーチル内閣は退陣したわけです。
サッチャーの社会保障政策について述べる前に、まずは当時のイギリスの状況を再確認したいと思います。
当時のイギリスはインフレと失業率の増加が同時に進行している状態でした。
第二次世界大戦以前からイギリスの財政は破綻状態にありましたが、たい戦によってそれがさらに加速してしまった面もあります。
ずっと戦争をしていたせいです。戦争は国を披露させる大きな原因でもあるのです。
二次大戦後、インドやパキスタンなど多くの海外植民地がイギリスから独立していきました。
イギリスは当初それを妨害するつもりでしたが、すでにイギリスにはそのような力はありませんでした。
何よりイギリス国民がこれ以上の戦いを望まなかったのです。
戦争も終わった後に、国民が望んだのは平和な時代でした。
だからこそ国民はチャーチル率いる保守党ではなく、アトリー率いる労働党を支持したのです。
アトリーは社会保障を充実させましたが、経済を回復させることはできませんでした。
その後の歴代内閣も経済を回復させることはできず、イギリスの経済は西ドイツや日本といった二次大戦の敗戦国にさえ抜かれてしまうのです。
イギリス人のショックの大きさが想像できます。
そして1973年に起きたオイルショックが、イギリス経済にとどめを刺しました。
このオイルショックにより、石油価格は4倍になり、それに伴って世界中でインフレーションが起こりました。
このオイルショックは、高齢の方なら記憶にあるかもしれません。物価高騰で日本でも庶民は大変でした。
当然のごとく労働者は賃上げを要求しました。物価が上がり、何も買えなくなります。労働者は団結し、労働運動を行ったわけですが、マーガレット・サッチャーはそれに対して労働組合法の改正で対抗し、組合の力を削いだのでした。
そのほか、「サッチャリズム」と呼ばれる政策を取り、イギリス経済を立て直す一方で、初期には失業率の増加や地域間の格差拡大といった社会的な痛みを伴いました。
それが、悪魔ともいわれるゆえんです。
弱者の切り捨てというか、富裕層の力によって国家を立て直そうという政策です。

イギリスとアメリカは俗に二大政党制と呼ばれており、アメリカでは一般的に共和党を富裕層が、民主党を一般層が支持する傾向にあります。
イギリスはかつては保守党と自由党が二大政党でしたが、この時代には保守党と労働党が二大政党となっていました。
労働党は文字通り労働者が支持し、保守党は資本家をはじめとした富裕層が支持母体です。
サッチャーはバリバリの保守党員でした。
持つ者と持たざる者の対立は一次大戦の原因となりましたが、人類はその問題を現在でも乗り越えられていません。
労働者が支持する労働党にとって、格差是正は至上命題でした。
労働者が政治に最も期待するのはその一点です。
ゆえに累進課税制度などを推進し、格差是正のための社会保障を手厚くしたわけです。
しかしサッチャーにとって、そのような政策は唾棄すべき愚策でしかありませんでした。
サッチャーは労働組合を、「内なる敵」、と呼んで攻撃し続けました。
そしてサッチャーは勝利したのです。
決め手となったのは、労働組合側のスキャンダルでした。
当時、イギリス最大の労働組合は炭鉱労働者からなるNUM、(全国炭鉱労働組合)、でした。
「スカーギルの反乱」、サッチャーは後にこの時のことをそう呼びました。
スカーギルとは、当時NUM(全国炭鉱労働組合)のトップだった人物のことです。
スカーギルは労働運動で名を挙げた人物で、イギリスの労働者の代表といってもよい存在でした。
スカーギルは手強く、サッチャーは苦戦を強いられます。
しかし、スカーギルは次第に劣勢になっていき、ある時『サンデー・タイムズ』紙がNUM(全国炭鉱労働組合)のスキャンダルを報道しました。
なんとNUM(全国炭鉱労働組合)の関係者がリビアのカダフィー大佐と通じており、多額の資金が流入していたのです。
さらに、スカーギル自身がソ連と通じていたことも発覚し、NUM(全国炭鉱労働組合)の評判は地に落ちることになりました。
このような幸運もあり、サッチャーは労働組合に勝利することができたのでした。
これにより、イギリスでは労働者の解雇や賃金カットが容易になり、サッチャー政権時には人々の貧困化が加速したのです。
失業者は300万人を超え、社会の不平等をあらわすジニ係数の値は飛躍的に増大しました。
貧富の差が拡大したのです。
労働者側から見ると最悪ですが、彼女の支持母体である経営者などの資本家から見れば最高でした。
彼女の政策は徹底的に富裕層優遇で、所得税の減税を進め、付加価値税である消費税の増税を進めました。
所得税は収入が多くなると税率の上がる累進課税である一方、消費税は一律だから、消費増税は富裕層に有利な税制でもあるのです。
彼女はさらに国有企業の民営化を進めました。
かつて労働党のアトリー内閣の下で、電気や水道などのインフラはもちろん、鉄鋼業などのあらゆる産業が国有化されました。
サッチャーはそれらの事業を次々と民営化していったのです。
民営化すると、 資産売却という形になるので、国家の歳入が一時的に増えることになります。
代表的だったのがブリティッシュ・テレコムという通信会社の民営化でした。
ブリティッシュ・テレコムの株式を売却した時には200万人以上の人がブリティッシュ・テレコムの株を購入し、その総額は現在価値に換算すると1兆円以上にもなりました。
さらにサッチャーは「ビッグバン」と呼ばれた金融改革も行っています。
「金融ビッグバン」です。これは簡単に言えば金融の自由化で、この点に関しては現在でも賛否両論のある部分です。
サッチャーの改革は実に幅広い分野に及びました。サッチャー政権下では失業率が増大しましたが、一方で持ち家率は飛躍的に伸びました。
なぜなら、 彼女は公営住宅を市場価格の3分の2の価格で売りに出したのです。
その結果、イギリスの持ち家率は20%ほど上がりました。
サッチャーの目指していた方向性は個人による資産の最大化であり、公営住宅の売却はまさにその表れだったのです。
サッチャーの評価は難しく、サッチャー政権下では失業率が5%から11%まで増大したものの、1人当たりの平均GDPも増大しています。
どうしてそうなるかといえば、例えば年間所得が500万円の3人がいれば平均値も500万円となりますが、6000万円がひとり、もう一人が0円、そしてもう一人も0円なら平均値は2000万円となります。
数字のマジックです。
サッチャー政権下で資産を増大させた人も多かったということなのです。
ゆえに彼女を熱烈に信奉するものがいる一方、強烈に恨んでいる人もいるわけです。
続いて彼女の外交について見ていきましょう。
国内においても様々な問題に着手したサッチャーでしたが、外交はある意味それ以上の激務だったと言えるでしょう。
こと仕事量について言えば、イギリスの歴代首相の中でトップといっていいでしょう。
アメリカ、ヨーロッパ、ソ連、南アフリカ、中東、アイルランドと特筆すべき国家関係は多いですが、その中で最も特筆すべきはアルゼンチンとの関係です。

フォークランド紛争(Falklands War)は、1982年にアルゼンチンとイギリスの間で起きた南大西洋の領土紛争です。
当時のイギリス首相はマーガレット・サッチャーで、彼女の政治的転機にもなった重要な戦争です。

戦争の背景としては、フォークランド諸島(Falkland Islands)は、南アメリカ大陸の南端から約500kmの南大西洋上にある小さな群島です。
19世紀初頭からイギリスが実効支配していましたが、アルゼンチンも「マルビナス諸島(Islas Malvinas)」と呼び、自国領だと主張していました。

1982年当時、アルゼンチンは軍事政権(ガルト軍事政権)下にあり、経済の低迷と人権侵害への批判により、国内の支持率が著しく低下していました。
政府は国民の不満をそらすため、長年の国民的願望であるマルビナス諸島奪還を掲げ、ナショナリズムを煽ることで支持率回復を図りました。
当時のイギリス首相、マーガレット・サッチャーもまた、国内の失業率増加などにより支持率が低迷していました。
アルゼンチンの領有権主張に対し、サッチャーは断固として諸島防衛の姿勢を示したのです。
1982年4月2日、アルゼンチン軍はフォークランド諸島に奇襲攻撃を仕掛け、わずか数時間で諸島を占領しました。
これは国際社会を驚かせ、イギリスの主権に対する明確な侵害と見なされました。
イギリスの反撃がすぐに始まります。
イギリス本国からはるか遠い諸島への軍事力の行使は極めて困難でしたが、サッチャーは迷わず軍事行動による奪還を決定しました。
「イギリスの領土を他国に奪われることは許されない」という強い信念と、国内のナショナリズムを背景に、大規模なタスクフォース(遠征部隊)を編成し派遣しました。
「戦う意志がある限り、イギリスは偉大であり続ける」というサッチャーの言葉は有名です。
フォークランドでは、激しい戦闘が行われました。
イギリス海軍は空母や駆逐艦、フリゲート艦などを派遣し、アルゼンチン空軍や海軍と激しい戦闘を繰り広げました。
アルゼンチン巡洋艦「ベルグラノ」の撃沈や、イギリス駆逐艦「シェフィールド」がミサイル攻撃で大破するなど、双方に大きな損害が出ました。
イギリス軍は諸島に上陸し、アルゼンチン軍との地上戦を展開しました。
ゲリラ戦術や特殊部隊の活用も行われ、激しい攻防の末にイギリス軍が優勢となりました。
1982年6月14日、アルゼンチン軍は降伏し、イギリスがフォークランド諸島を奪還したのです。
イギリスの勝利で紛争は約74日間で終結しました。
この戦争の勝利によりサッチャーの支持率はうなぎ上りとなり、わずか25%ほどまで下落していたサッチャー内閣の支持率は80%を超すほどになるのでした。
その勢いで1983年に総選挙が行われ、保守党は労働党に100議席以上の大差をつけて勝利しました。
サッチャーによる政治による大鉈はフォークランド紛争以前よりも以降の方が激しく振るわれています。
先ほど触れた国有企業の民営化については、1期目よりも2期目の方がはるかに数が多いです。
支持率が高いうちに一気に国有企業の民営化を行ったのです。
サッチャーは戦争によって得た支持率で各種の改革を行ったと言って良いでしょう。
その後、先ほども触れた労働組合との戦いにも勝利し、その手法や主義は「サッチャリズム」と呼ばれるようになります。
彼女に「鉄の女」の異名をつけたのはソ連でした。サッチャーの在任中、ソ連はそのあり方を大きく変えました。
「アメリカ・ソビエト連邦二大陣営」と呼ばれたのは今や昔、ソ連も急速に力を失っていたのです。
イギリスのサッチャー、アメリカのレーガン、ソ連のゴルバチョフ、冷戦崩壊の主役はこの3人でした。
ただ残念ながら、冷戦を終結させたマルタ会談にはサッチャーは呼ばれていません。
冷戦は俗に「ヤルタからマルタへ」と言われますが、ヤルタ会談に参加したイギリスはマルタ会談には呼ばれなかったのです。
この数十年でイギリスの立場は変わったのです。
結論から言えば、サッチャーの力をもってしても、イギリスはかつての栄光を取り戻せなかったといえるでしょう。
イギリスはすでにアメリカ合衆国に追随することしかできなくなっていたのです。
「スカーギルの反乱」、サッチャーは後にこの時のことをそうよびました。
スカーギルとは、当時NUM、(全国炭鉱労働組合)、のトップだった人物のことです。
スカーギルは労働運動で名を挙げた人物で、イギリスの労働者の代表といってもよい存在でした。
スカーギルは手強く、サッチャーは苦戦を強いられます。
しかし、スカーギルは次第に劣勢になっていき、ある時、『サンデー・タイムズ』紙がNUM、(全国炭鉱労働組合)、のスキャンダルを報道しました。
なんとNUM、(全国炭鉱労働組合)、の関係者がリビアのカダフィー大佐と通じており、多額の資金が流入していたのです。
さらに、スカーギル自身がソ連と通じていたことも発覚し、NUM、(全国炭鉱労働組合)、の評判は地に落ちることになりました。
このような幸運もあり、サッチャーは労働組合に勝利することができたのでした。
これにより、イギリスでは労働者の解雇や賃金カットが容易になり、サッチャー政権時には人々の貧困化が加速したのです。
失業者は300万人を超え、社会の不平等をあらわすジニ係数の値は飛躍的に増大しました。
貧富の差が拡大したのです。
労働者側から見ると最悪ですが、彼女の支持母体である経営者などの資本家から見れば最高でした。
彼女の政策は徹底的に富裕層優遇で、所得税の減税を進め、付加価値税である消費税の増税を進めました。
所得税は収入が多くなると税率の上がる累進課税である一方、消費税は一律だから、消費増税は富裕層に有利な税制でもあるのです。
彼女はさらに国有企業の民営化を進めました。
かつて労働党のアトリー内閣の下で、電気や水道などのインフラはもちろん、鉄鋼業などのあらゆる産業が国有化されました。
サッチャーはそれらの事業を次々と民営化していったのです。
民営化すると、 資産売却という形になるので、国家の歳入が一時的に増えることになります。
代表的だったのがブリティッシュ・テレコムという通信会社の民営化でした。
ブリティッシュ・テレコムの株式を売却した時には200万人以上の人がブリティッシュ・テレコムの株を購入し、その総額は現在価値に換算すると1兆円以上にもなりました。
さらにサッチャーは「ビッグバン」と呼ばれた金融改革も行っています。
「金融ビッグバン」です。これは簡単に言えば金融の自由化で、この点に関しては現在でも賛否両論のある部分です。
サッチャーの改革は実に幅広い分野に及びました。サッチャー政権下では失業率が増大しましたが、一方で持ち家率は飛躍的に伸びました。
なぜなら、 彼女は公営住宅を市場価格の3分の2の価格で売りに出したのです。
その結果、イギリスの持ち家率は20%ほど上がりました。サッチャーの目指していた方向性は個人による資産の最大化であり、公営住宅の売却はまさにその表れだったのです。
サッチャーの評価は難しく、サッチャー政権下では失業率が5%から11%まで増大したものの、1人当たりの平均GDPも増大しています。
どうしてそうなるかといえば、例えば年間所得が500万円の3人がいれば平均値も500万円となりますが、6000万円がひとり、もう一人がゼロ円、そしてもう一人もゼロ円なら平均値は2000万円となります。
数字のマジックです。
サッチャー政権下で資産を増大させた人も多かったということなのです。
ゆえに彼女を熱烈に信奉するものがいる一方、強烈に恨んでいる人もいるわけです。
続いて彼女の外交について見ていきましょう。
国内においても様々な問題に着手したサッチャーでしたが、外交はある意味それ以上の激務だったと言えるでしょう。
こと仕事量について言えば、イギリスの歴代首相の中でトップといっていいでしょう。
アメリカ、ヨーロッパ、ソ連、南アフリカ、中東、アイルランドと特筆すべき国家関係は多いですが、その中で最も特筆すべきはアルゼンチンとの関係です。

フォークランド紛争、(Falklands War)、は、1982年にアルゼンチンとイギリスの間で起きた南大西洋の領土紛争です。
当時のイギリス首相はマーガレット・サッチャーで、彼女の政治的転機にもなった重要な戦争です。

戦争の背景としては、フォークランド諸島、(Falkland Islands)は、南アメリカ大陸の南端から約500kmのみなみたい西洋上にある小さな群島です。
19世紀初頭からイギリスが実効支配していましたが、アルゼンチンも、「マルビナス諸島(Islas Malvinas)」と呼び、自国領だと主張していました。

1982年当時、アルゼンチンは軍事政権、(ガルト軍事政権)かにあり、経済の低迷と人権侵害への批判により、国内の支持率が著しく低下していました。
政府は国民の不満をそらすため、長年の国民的願望であるマルビナス諸島奪還を掲げ、ナショナリズムを煽ることで支持率回復を図りました。
当時のイギリス首相はマーガレット・サッチャーもまた、国内の失業率増加などにより支持率が低迷していました。
アルゼンチンの領有権主張に対し、サッチャーは断固として諸島防衛の姿勢を示したのです。
1982年4月2日、アルゼンチン軍はフォークランド諸島に奇襲攻撃を仕掛け、わずか数時間で諸島を占領しました。
これは国際社会を驚かせ、イギリスの主権に対する明確な侵害と見なされました。
イギリスの反撃がすぐに始まります。
イギリス本国からはるか遠い諸島への軍事力の行使は極めて困難でしたが、サッチャーは迷わず軍事行動による奪還を決定しました。
「イギリスの領土を他国に奪われることは許されない」という強い信念と、国内のナショナリズムを背景に、大規模なタスクフォース、(遠征部隊)、を編成し派遣しました。
「戦う意志がある限り、イギリスは偉大であり続ける」、というサッチャーの言葉は有名です。
フォークランドでは、激しい戦闘が行われました。
イギリス海軍は空母や駆逐艦、フリゲート艦などを派遣し、アルゼンチン空軍や海軍と激しい戦闘を繰り広げました。
アルゼンチン巡洋艦、「ベルグラノ」、の撃沈や、イギリス駆逐艦、「シェフィールド」、がミサイル攻撃で大破するなど、双方に大きな損害が出ました。
イギリス軍は諸島に上陸し、アルゼンチン軍との地上戦を展開しました。
ゲリラ戦術や特殊部隊の活用も行われ、激しい攻防の末にイギリス軍が優勢となりました。
1982年6月14日、アルゼンチン軍は降伏し、イギリスがフォークランド諸島を奪還したのです。
イギリスの勝利で紛争は約ななじゅうよっかかんで終結しました。
この戦争の勝利によりサッチャーの支持率はうなぎのぼりとなり、わずか25%ほどまで下落していたサッチャー内閣の支持率は80%を超すほどになるのでした。
その勢いで1983年に総選挙が行われ、保守党は労働党に100議席以上の大差をつけて勝利しました。
サッチャーによる、政治による大鉈はフォークランド紛争以前よりも以降の方が激しく振るわれています。
先ほど触れた国有企業の民営化については、1期目よりも2期目の方がはるかに数が多いです。
支持率が高いうちに一気に国有企業の民営化をおこなったのです。
サッチャーは戦争によって得た支持率で各種の改革をおこなったと言って良いでしょう。
その後、先ほども触れた労働組合との戦いにも勝利し、その手法や主義は、「サッチャリズム」、と呼ばれるようになります。
彼女に、「鉄の女」、の異名をつけたのはソ連でした。サッチャーの在任中、ソ連はそのあり方を大きく変えました。
「アメリカ・ソビエト連邦二大陣営」と呼ばれたのは今や昔、ソ連も急速に力を失っていたのです。
イギリスのサッチャー、アメリカのレーガン、ソ連のゴルバチョフ、冷戦崩壊の主役はこの3人でした。
ただ残念ながら、冷戦を終結させたマルタ会談にはサッチャーは呼ばれていません。
冷戦は俗に、「ヤルタからマルタへ」、と言われますが、ヤルタ会談に参加したイギリスはマルタ会談には呼ばれなかったのです。
この数十年でイギリスの立場は変わったのです。
結論から言えば、サッチャーの力をもってしても、イギリスはかつての栄光を取り戻せなかったといえるでしょう。
イギリスはすでにアメリカ合衆国に追随することしかできなくなっていたのです。
イギリス首相サッチャーとアメリカ大統領レーガンの蜜月関係は有名で、その関係は「政治的結婚」と評されるほどでした。
サッチャーとレーガンはとにかく相性が良かったようで、ともに新自由主義の実践者の代表例としてその名が挙がります。
進む方向性が一緒だったようです。
サッチャーはアメリカから天文学的な額の武器を購入し、アメリカがリビアを攻撃したいといえば喜んで基地を貸し出しました。
ただ、レーガンは「双子の赤字」と呼ばれた財政赤字と貿易赤字を削減するために核兵器の縮小を実践したのですが、サッチャーはその点に関しては激しく反対したと言われています。
サッチャーは力こそ正義と思っていたのでしょう。
レーガンの後に大統領になったブッシュに対し、中東での軍事行動を促したことは有名です。
サッチャーは「力の論理」の信奉者だったと言えます。
強ければ生き、弱ければ死ぬ。
しかし、そんな彼女を誰しもが支持したわけではありません。
対立は様々な場所で起こりました。
例えば、南アフリカのアパルトヘイトの問題をめぐっては、サッチャーとコモンウェルス諸国は対立しました。
それは、南アフリカは依然として差別法を堂々と施行していたからです。
各国は南アフリカに経済制裁を下したわけですが、サッチャーは経済制裁には反対しています。
それがコモンウェルス各国(特にアフリカ諸国やカナダなど)からの反発を招いたのです。

さらに北アイルランド問題に関しても、サッチャーは強硬でした。
IRAはアイルランドの歴史、特に北アイルランド紛争において極めて大きな影響を与えた組織です。
その活動はテロリズムを伴う暴力的なものであり、多くの犠牲者を出しました。
1984年には PIRA(旧IRAの指導部がカトリック系住民の保護に消極的だったことや、非効率的だと感じられたことから、より強硬なメンバーが分離してPIRAを結成しました。
彼らは武装闘争を全面的に肯定し、北アイルランドをイギリスから切り離し、統一アイルランド共和国を樹立することを目的としました)はイギリス保守党の党大会が開かれていたブライトンのホテルを爆破し、サッチャー首相の閣僚を含む5名が死亡しました。
サッチャー首相自身も標的でしたが、無事でした。この事件は、IRAのテロがイギリス政府の中枢にまで及んだことを示し、サッチャーはこれを「自由社会への攻撃」として非難し、さらに強硬な姿勢を崩しませんでした。
しかし、その背後にはアイルランドの統一と独立、そしてカトリック系住民の権利擁護という、根深い民族的・政治的感情が存在していました。
現在では主要なIRA組織は武装解除し、シン・フェイン党が合法的な政治活動を行っていますが、一部の分派組織は依然として活動を続けています。
結局のところ、古くより続くアイルランドとブリテン島の問題は現在も解決しないままです。

サッチャーはまたエリザベス女王との関係も良好ではなかったようです。
2人は様々な面で対立したと言われていて、特にローデシアおよび南アフリカ問題では足並みがそろわなかったと言います。
南アフリカの問題は揉めています。エリザベス女王はアパルトヘイト問題を解決すべくネルソン・マンデラの釈放を願っており、サッチャーに協力を要請しましたが、サッチャーは協力しなかったようです。
南アフリカといえば、サッチャーの息子が住んでいたことがあります。
サッチャーの息子であるマークはその悪名が知られる人物です。
1982年にはパリ・ダカールラリーに参加し、四日間ほど行方不明になったことがありました。
これは国際的な問題にまで発展し、アルジェリアは軍隊を動員して大規模な捜索活動を行いました。
マークは何とか見つかったのですが、不遜な態度で記者会見に臨み、イギリスはもちろん世界中のひんしゅくを買いました。
その後もマークはスキャンダルを連発し、父であるデニスはマーガレットへの影響を考慮してマークを海外で生活させたのです。
しかしマークは行く先々で問題を起こし、訴訟問題にまでなった例さえあったほどです。
まさに不肖の息子です。
そのマークが南アフリカで何らかの事業を営んでいたらしいのです。
1998年にはマークが違法な高利貸しをしていたとして、南アフリカ当局の捜査を受けています。
息子も含め、サッチャー一家にはある疑惑が持たれています。
1985年、イギリスの会社がサウジアラビアに対し多額の武器を輸出しました。その額は現在価値にして10兆円にも及ぶと言います。
その一部がマークの手に渡った可能性が指摘されています。
なお、この取引はサッチャーの主導によって行われています。
マークはこの取引への関与については否定していますが、その他たくさんの不正にかかわったことは認めています。

この件だけはたとえ関わっていたとしても認めるわけにはいかないようです。
ちなみにサッチャーは後に南アフリカの大統領となるネルソン・マンデラのことをただの犯罪者だと見なしていたようです。
彼女は非常に好き嫌いの激しい性格で、例えばイギリス初の女性首相にもかかわらずフェミニズムを嫌悪していたことは有名です。
フェミニズムの祖であるパンクハーストについて質問されると露骨に無視し、「私はフェミニズムは大嫌い、あれは毒」という言葉を残しています。
三つ子の魂百までといいますが、彼女は骨の髄まで保守層だったのです。
マンデラやパンクハーストなど、新たに権利を勝ち取ったような人物、つまり成り上がり、は大嫌いだったのでしょう。
そしてそのような性格が災いしてか、閣僚の離反も相次ぎました。
彼女は人前でも閣僚を怒鳴りつけていたようで、それは彼女にとって致命傷となるのでした。

サッチャー内閣にも終わりの時が近づいてきました。
サッチャー内閣終焉の原因は大きく分けて5つあったと言われています。
中でも「人頭税の導入」と「欧州政策の失敗」は大きかったと言われています。
サッチャーの賛否両論の多い政策の中で、明確に失政の烙印を押されている政策です。

イギリスには伝統的に「レイト」と呼ばれる地方財産税が存在していました。
レイトの起源は、貧困者救済のためにエリザベス朝時代に導入された「貧困税(Poor Rate)」に遡ると言われており、非常に長い歴史を持つ税制でした。
レイトは、地方自治体が学校、道路の維持管理、ごみ収集、警察、消防などの公共サービスを提供するための主要な財源でした。
 低所得者層や特定の条件を満たす世帯はレイトを免除されることが多く、この「納税義務のない世帯」が全体の半分以上を占める時期もありました。
サッチャーは、これらの人々も地方自治体のサービスを受けているのに負担を負わないのは不公平だと考えました。

そこでサッチャーはこの仕組みを廃止して、新たに「共同体課金」という名の人頭税の導入を決めました。
これは、地方自治体の成人住民一人ひとりに対して、原則として一律の金額を課税するというものでした(一部の免除や割引はあったものの、基本的な考え方は「一人一律」)。サッチャーはこれにより、「サービスを受けるすべての人が、その対価を(少なくても一部は)負担すべきだ」という公平性を実現しようとしました。
しかし、これにはスコットランドの保守党が大反発しました。
イングランドとスコットランドの制度はこの時期でも異なり、サッチャーの案ではスコットランドに大きな影響が出たのです。
国民よりも前に、サッチャーは保守党内部での支持を失ってしまったのです。
しかしサッチャーは周囲からの反対にも屈せず、この税制度を実行してしまいます。
この税制度は全国的に大反発を招きました。
ロンドンのナポレオンに勝った輝かしい象徴のトラファルガー広場では暴動が起き、警察が出動する事態にまで発展してしまいます。。
サッチャーにとってまずかったのは、反発は富裕層の間でも大きかったことです。
このことにより彼女は自分の支持層を失ってしまったのでした。
人頭税はサッチャー退任後にすぐに廃止され、現在では「カウンシル・タックス(Council Tax)」という、住宅の価値や世帯構成に応じて課税される新たな地方税制度に移行しています。
レイトの廃止から人頭税導入、そしてその失敗は、イギリスの税制史における大きな転換点であり、サッチャーの政治的キャリアにおける最大の失策と見なされています。
また欧州との関係でも失敗だったといえるでしょう。
彼女は常々国益よりも個人的な好き嫌いを優先したと言われます。女の悪い部分が出たのでしょうか。
サッチャーは常々ドイツを嫌悪していました。
ドイツ東西統一の立役者ともいえるヘルムート・コールのことは嫌悪していたようで、その態度はあからさまだったと言います。
ドイツ統一後、あるいはその前から欧州統合の流れが来ていました。
イギリスも1973年にECに加盟していましたが、サッチャーは農業問題や通貨問題などの点でECに対して敵意をむき出しにしていました。
彼女はベルギーで行った演説にて「反ヨーロッパ連合主義」を主張しました。
そしてそれが閣僚をはじめ多くの議員の反発を招いてしまいます。
味方であったはずの人たちからの支持が得られなくなってしまったのです。
他にも、ウエストランドという会社をめぐって国防大臣のヘーゼルタインが辞任するなど、閣内でも不一致が目立っていました。
そして追い打ちをかけるようにインフレが進み、経済状況はますます悪化していきます。
そしてそのような中で起こったのが、ジェフリー・ハウの辞任劇でした。
ジェフリー・ハウはかつてサッチャーと保守党の党首を争った人物で、サッチャー内閣においては財務大臣や外務大臣を歴任した重鎮です。
そんな人物が辞任してしまったのです。原因は欧州問題でした。
イギリス首相サッチャーとアメリカ大統領レーガンの蜜月関係は有名で、その関係は、「政治的結婚」、と評されるほどでした。
サッチャーとレーガンはとにかく相性が良かったようで、ともに新自由主義の実践者の代表例としてその名が挙がります。
進む方向性が一緒だったようです。
サッチャーはアメリカから天文学的な額の武器を購入し、アメリカがリビアを攻撃したいといえば喜んで基地を貸し出しました。
ただ、レーガンは、「双子の赤字」、と呼ばれた財政赤字と貿易赤字を削減するために核兵器の縮小を実践したのですが、サッチャーはその点に関しては、はげしく反対したと言われています。
サッチャーは力こそ正義と思っていたのでしょう。
レーガンの後に大統領になったブッシュに対し、中東での軍事行動を促したことは有名です。
サッチャーは、「力の論理」、の信奉者だったと言えます。
強ければ生き、弱ければ死ぬ。
しかし、そんな彼女を誰しもが支持したわけではありません。
対立は様々な場所で起こりました。
例えば、南アフリカのアパルトヘイトの問題をめぐっては、サッチャーとコモンウェルス諸国は対立しました。
それは、南アフリカは依然として差別法を堂々と施行していたからです。
各国は南アフリカに経済制裁を下したわけですが、サッチャーは経済制裁には反対しています。
それがコモンウェルス各国、(特にアフリカ諸国やカナダなど)、からの反発を招いたのです。

さらに北アイルランド問題に関しても、サッチャーは強硬でした。
IRAはアイルランドの歴史、特に北アイルランド紛争において極めて大きな影響を与えた組織です。
その活動はテロリズムを伴う暴力的なものであり、多くの犠牲者を出しました。
1984年には PIRA、(旧IRAの指導部がカトリック系住民の保護に消極的だったことや、非効率的だと感じられたことから、より強硬なメンバーが分離してPIRAを結成しました。
彼らは武装闘争を全面的に肯定し、北アイルランドをイギリスから切り離し、統一アイルランド共和国を樹立することを目的としました。)、
はイギリス保守党の党大会が開かれていたブライトンのホテルを爆破し、サッチャー首相の閣僚を含む5名が死亡しました。
サッチャー首相自身も標的でしたが、無事でした。この事件は、IRAのテロがイギリス政府の中枢にまで及んだことを示し、サッチャーはこれを、「自由社会への攻撃」、として非難し、さらに強硬な姿勢を崩しませんでした。
しかし、その背後にはアイルランドの統一と独立、そしてカトリック系住民の権利擁護という、根深い民族的・政治的感情が存在していました。
現在では主要なIRA組織は武装解除し、シン・フェイン党が合法的な政治活動を行っていますが、一部の分派組織は依然として活動を続けています。
結局のところ、古くより続くアイルランドとブリテン島の問題は現在も解決しないままです。

サッチャーはまたエリザベス女王との関係も良好ではなかったようです。
2人は様々な面で対立したと言われていて、特にローデシアおよび南アフリカ問題では足並みがそろわなかったと言います。
南アフリカの問題は揉めています。エリザベス女王はアパルトヘイト問題を解決すべくネルソン・マンデラの釈放を願っており、サッチャーに協力を要請しましたが、サッチャーは協力しなかったようです。
南アフリカといえば、サッチャーの息子が住んでいたことがあります。
サッチャーの息子であるマークはその悪名が知られる人物です。
1982年にはパリ・ダカールラリーに参加し、よっかかんほど行方不明になったことがありました。
これは国際的な問題にまで発展し、アルジェリアは軍隊を動員して大規模な捜索活動を行いました。
マークは何とか見つかったのですが、不遜な態度で記者会見に臨み、イギリスはもちろん世界中のひんしゅくを買いました。
その後もマークはスキャンダルを連発し、父であるデニスはマーガレットへの影響を考慮してマークを海外で生活させたのです。
しかしマークは行く先々で問題を起こし、訴訟問題にまでなった例さえあったほどです。
まさに不肖の息子です。
そのマークが南アフリカで何らかの事業を営んでいたらしいのです。
1998年にはマークが違法な高利貸しをしていたとして、南アフリカ当局の捜査を受けています。
息子も含め、サッチャー一家にはある疑惑が持たれています。
1985年、イギリスの会社がサウジアラビアに対し多額の武器を輸出しました。その額は現在価値にして10兆円にも及ぶと言います。
その一部がマークの手に渡った可能性が指摘されています。
なお、この取引はサッチャーの主導によって行われています。
マークはこの取引への関与については否定していますが、その他たくさんの不正にかかわったことは認めています。
この件だけはたとえ関わっていたとしても認めるわけにはいかないようです。
ちなみにサッチャーは後に南アフリカの大統領となるネルソン・マンデラのことをただの犯罪者だと見なしていたようです。
彼女は非常に好き嫌いの激しい性格で、例えばイギリス初の女性首相にもかかわらずフェミニズムを嫌悪していたことは有名です。
フェミニズムの祖であるパンクハーストについて質問されると露骨に無視し、「私はフェミニズムは大嫌い、あれは毒」という言葉を残しています。
三つ子の魂百までといいますが、彼女は骨の髄まで保守層だったのです。
マンデラやパンクハーストなど、新たに権利を勝ち取ったような人物、つまり成り上がり、は大嫌いだったのでしょう。
そしてそのような性格が災いしてか、閣僚の離反も相次ぎました。彼女は人前でも閣僚を怒鳴りつけていたようで、それは彼女にとってちめいしょうとなるのでした。

サッチャー内閣にも終わりの時が近づいてきました。
サッチャー内閣終焉の原因は大きく分けて5つあったと言われています。
中でも「人頭税の導入」と「欧州政策の失敗」は大きかったと言われています。
サッチャーの賛否両論の多い政策の中で、明確に失政の烙印を押されている政策です。

イギリスには伝統的に、「レイト」と呼ばれる地方財産税が存在していました。
レイトの起源は、貧困者救済のためにエリザベス朝時代に導入された「貧困税、(Poor Rate)」に遡ると言われており、非常に長い歴史を持つ税制でした。
レイトは、地方自治体が学校、道路の維持管理、ごみ収集、警察、消防などの公共サービスを提供するための主要な財源でした。
 低所得者層や特定の条件を満たす世帯はレイトを免除されることが多く、この「納税義務のない世帯」が全体の半分以上を占める時期もありました。
サッチャーは、これらの人々も地方自治体のサービスを受けているのに負担を負わないのは不公平だと考えました。

そこでサッチャーはこの仕組みを廃止して、新たに「共同体課金」という名の人頭税の導入を決めました。
これは、地方自治体の成人住民一人ひとりに対して、原則として一律の金額を課税するというものでした。(一部の免除や割引はあったものの、基本的な考え方は「一人一律」)。サッチャーはこれにより、「サービスを受けるすべての人が、その対価を、(少なくても一部は)、負担すべきだ」、という公平性を実現しようとしました。
しかし、これにはスコットランドの保守党が大反発しました。
イングランドとスコットランドの制度はこの時期でも異なり、サッチャーの案ではスコットランドに大きな影響が出たのです。
国民よりも前に、サッチャーは保守党内部での支持を失ってしまったのです。
しかしサッチャーは周囲からの反対にも屈せず、この税制度を実行してしまいます。
この税制度は全国的に大反発を招きました。
ロンドンのナポレオンに勝った輝かしい象徴のトラファルガー広場では暴動が起き、警察が出動する事態にまで発展してしまいます。
サッチャーにとってまずかったのは、反発は富裕層の間でも大きかったことです。
このことにより彼女は自分の支持層を失ってしまったのでした。
人頭税はサッチャー退任後にすぐに廃止され、現在では「Council Tax」、という、住宅の価値や世帯構成に応じて課税される新たな地方税制度に移行しています。
レイトの廃止から人頭税導入、そしてその失敗は、イギリスの税制史における大きな転換点であり、サッチャーの政治的キャリアにおける最大の失策と見なされています。
また欧州との関係でも失敗だったといえるでしょう。
彼女は常々国益よりも個人的な好き嫌いを優先したと言われます。女の悪い部分が出たのでしょうか。
サッチャーは常々ドイツを嫌悪していました。
ドイツ東西統一の立役者ともいえるヘルムート・コールのことは嫌悪していたようで、その態度はあからさまだったと言います。
ドイツ統一後、あるいはその前から欧州統合の流れが来ていました。
イギリスも1973年にECに加盟していましたが、サッチャーは農業問題や通貨問題などの点でECに対して敵意をむき出しにしていました。
彼女はベルギーで行った演説にて、「反ヨーロッパ連合主義」を主張しました。
そしてそれが閣僚をはじめ多くの議員の反発を招いてしまいます。
味方であったはずの人たちからの支持が得られなくなってしまったのです。
他にも、ウエストランドという会社をめぐって国防大臣のヘーゼルタインが辞任するなど、閣内でも不一致が目立っていました。
そして追い打ちをかけるようにインフレが進み、経済状況はますます悪化していきます。
そしてそのような中で起こったのが、ジェフリー・ハウの辞任劇でした。
ハウはかつてサッチャーと保守党の党首を争った人物で、サッチャー内閣においては財務大臣や外務大臣を歴任した重鎮です。
そんな人物が辞任してしまったのです。原因は欧州問題でした。
ハウはECとの関係改善に努め、単一欧州議定書に署名までさせたほどです。
でもサッチャーは欧州統合には反対でしたので、ハウは外相から外されてしまったのです。
ハウは副首相となり、その後もサッチャーに何とか欧州統合に賛成させるよう行動していました。
でもサッチャーの考え方は変わらなかったようです。
そして1990年11月1日、ハウは辞任を表明しました。
そしてその際、ハウはサッチャーを非難するスピーチを行ったことでも有名です。
「打席に割って入ろうとして分かったことは、チームのキャプテンによって試合前にバットがことごとく破壊されていたことだった」。
これがとどめとなりました。
国民よりも前に保守党がサッチャーにノーを突きつけたのです。
彼女は保守党の党首選において必要な票数を獲得できず、マーガレット・サッチャーはイギリスの首相ではなくなりました。
サッチャーが首相だった期間は11年と108日です。20世紀以降の首相としては最も長い期間、首相の座にいたことになります。
彼女はその後も貴族院議員であり続けましたが、2000年代に入ると認知症が進んでしまい、夫が亡くなったことさえも忘れてしまったと言います。
マーガレット・サッチャーは「鉄の女」といわれていましたが、彼女は世間で思われているほど強くはなかったようです。
回想録において彼女は、一つ一つの出来事にとても傷ついていたことを語っており、むしろ人より傷つきやすい性質だったことがうかがえます。
「鉄の女」というのは周りがつけたイメージだったのでしょうか。
彼女は政策的には一貫して弱者切り捨てを行いましたが、サッチャーの関係者は「サッチャーは弱者や不幸な人、そして不遇な人に対して非常に優しかった」と述べています。
彼女は富裕層の力を使って貧困層を救おうとしたと思います。
やり方はどうあれ、彼女は貧しいものたちのことを考えての政策ではなかったのでしょうか。
その政策は明日を見るのではなく10年後、20年後を見ていたのだと思います。
今は大変ではあるが、子供や孫の時代には素晴らしいイギリスがあると信じていたから「鉄の女」といわれても彼女の信じる政策に邁進したのでしょう。
2013年4月8日、マーガレット・サッチャーは亡くなりました。
彼女の葬儀は国葬とされ、生前は不仲だと言われていたエリザベス女王も参列しています。
女王陛下が参列するのは、 チャーチルの葬儀以来48年ぶりのことだそうです。
マーガレット・サッチャーの評価は二分されます。サッチャーの彫像はウエストミンスター議事堂にひときわ大きく飾られていると言います。
彼女と同じ大きさの像は、チャーチル、ロイド・ジョージ、アトリーの3人だけだそうです。
サッチャーへの評価の高さが分かります。
しかし一方で、サッチャーの葬儀に税金を投入することに反対するデモも開かれています。
サッチャー政権が始まった時、格差を表すジニ係数は0.25であったのに対し、退任時には0.34にまで上がっています。
凄まじい上昇率です。就任時5%ほどであった失業率は、一時期13%を超え、退任時でも7%でした。失業率も増えたわけです。
マルタ会談を見ても分かるように、サッチャーの時代にはチャーチルの時代のような国際的な影響力をイギリスは持つことができませんでした。
また後にイギリスの首相となったブレアは、サッチャリズムの弊害除去をその政策の柱としました。
2021年現在、イギリスは世界第5位の経済大国であり、一人当たりのGDPは第22位で日本より1つ上の順位です。
彼女は果たしてイギリスを救ったのか、それともイギリスを破壊したのか?
その答えが出るのはもっと先のことなのかもしれません。
ハウはECとの関係改善に努め、単一欧州議定書に署名までさせたほどです。
でもサッチャーは欧州統合には反対でしたので、ハウは外相から外されてしまったのです。
ハウは副首相となり、その後もサッチャーに何とか欧州統合に賛成させるよう行動していました。
でもサッチャーの考え方は変わらなかったようです。
そして1990年11月1日、ハウは辞任を表明しました。
そしてその際、ハウはサッチャーを非難するスピーチを行ったことでも有名です。
「打席に割って入ろうとして分かったことは、チームのキャプテンによって試合前にバットがことごとく破壊されていたことだった」。
これがとどめとなりました。
国民よりも前に保守党がサッチャーにノーを突きつけたのです。
彼女は保守党の党首選において必要な票数を獲得できず、マーガレット・サッチャーはイギリスの首相ではなくなりました。
サッチャーが首相だった期間は11年とひゃくはちにちです。20世紀以降の首相としては最も長い期間、首相の座にいたことになります。
彼女はその後も貴族院議員であり続けましたが、2000年代に入ると認知症が進んでしまい、夫が亡くなったことさえも忘れてしまったと言います。
マーガレット・サッチャーは「鉄の女」といわれていましたが、彼女は世間で思われているほど強くはなかったようです。
回想録において彼女は、一つ一つの出来事にとても傷ついていたことを語っており、むしろ人より傷つきやすい性質だったことがうかがえます。
「鉄の女」というのは周りがつけたイメージだったのでしょうか。
彼女は政策的には一貫して弱者切り捨てを行いましたが、サッチャーの関係者は「サッチャーは弱者や不幸な人、そして不遇な人に対して非常に優しかった」と述べています。
彼女は富裕層の力を使って貧困層を救おうとしたと思います。
やり方はどうあれ、彼女は貧しいものたちのことを考えての政策ではなかったのでしょうか。
その政策は明日を見るのではなく10年後、20年後を見ていたのだと思います。
今は大変ではあるが、子供や孫の時代には素晴らしいイギリスがあると信じていたからこそ「鉄の女」といわれても彼女の信じる政策に邁進したのでしょう。
2013年4月8日、マーガレット・サッチャーは亡くなりました。
彼女の葬儀は国葬とされ、生前は不仲だと言われていたエリザベス女王も参列しています。
女王陛下が参列するのは、 チャーチルの葬儀以来48年ぶりのことだそうです。
マーガレット・サッチャーの評価はにぶんされます。サッチャーの彫像はウエストミンスター議事堂にひときわ大きく飾られていると言います。
彼女と同じ大きさの像は、チャーチル、ロイド・ジョージ、アトリーの3人だけだそうです。
サッチャーへの評価の高さが分かります。
しかし一方で、サッチャーの葬儀に税金を投入することに反対するデモも開かれています。
サッチャー政権が始まった時、格差を表すジニ係数は0.25であったのに対し、退任時には0.34にまで上がっています。
凄まじい上昇率です。就任時5%ほどであった失業率は、一時期13%を超え、退任時でも7%でした。失業率も増えたわけです。
マルタ会談を見ても分かるように、サッチャーの時代にはチャーチルの時代のような国際的な影響力をイギリスは持つことができませんでした。
またのちにイギリスの首相となったブレアは、サッチャリズムの弊害除去をその政策の柱としました。
2021年、イギリスは世界第5位の経済大国であり、一人当たりのGDPは第22位で日本より1つうえの順位です。彼女は果たしてイギリスを救ったのか、それともイギリスを破壊したのか?
その答えが出るのはもっと先のことなのかもしれません。
この動画を見て皆さんどう思いましたか?
日本の政治も我々はしっかり監視し、正しい方向に進むようにしなければなりません。
それは我々の生活に直結する問題となるからです。
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ではまた次の動画でお会いしましょう。
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日本の政治も我々はしっかり監視し、正しい方向に進むようにしなければなりません。
それは我々の生活に直結する問題となるからです。
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ではまた次の動画でお会いしましょう。
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